「多様性を認める」について思うこと

久しぶりの投稿です。

勉強に関して、受験に関して有益なブログを書こうと思っても後回しにしてしまう日々。

生徒への指導は常に全力で行っている分、ブログに書くのが面倒なんです。笑

 

そこで、もう今後は私、山田が思っていることや考えていることを何でも気が向いたときに書こうと思います。勉強とか受験とか全く関係ないかもしれませんし幾分偏った内容になる可能性もあります。高校生が読むにはヘビーだったりするかもしれませんが、興味がある方は見ていただけたら幸いです。

 

さて、今日は「多様性を認める社会」について思うことを書きます。

ちなみに私は「多様性を認め合える社会」になってほしいと思っているし、そうした取り組みには賛成です。近年ではLGBTをカミングアウトする方が増えたり、それに対して肯定的な反応が増えたのもステキなことだと思います。

ただ日本の場合、「多様性を認め」ているんじゃなくて「自分以外を否定しない」ことで多様性を認めているかのように振る舞っていることが非常に多く感じます。もしかしたら外国もそうなのかもしれませんが、日本人はそもそも他者を否定するほど自分の主張を強く持つような教育を受けていないので、その方向性は強いです。「多様性を認める」が、いわゆる「空気を読む」の延長線上にある対応のように見えるのです。

 

「他者を否定しない社会」。全く悪い物だとは思っていません。「空気を読む」ことも、それ自体は悪いことではないと考えています。問題は、それらを過剰に求める社会からの圧力があるということです。

まだまだ「多様性を認める」ことは表面的なものでしかなく、実際には心の中で差別や軽蔑の言葉を持っている人はたくさんいます。そして、それをどこかで吐き出したくなる。個人が特定され実社会に影響がある所ではなく、TwitterやYouTubeの裏アカウントなどで自らの正義を振りかざして他者を平気でののしり、侮辱する。ヤフーニュースのコメント欄なんかは典型ですね。

 

「多様性を認める」という方向へのベクトルと、自分のことだけを考え他者への差別を平気で行うベクトル。一見矛盾する方向性のように感じますが、表層的に多様性が求められれば求められるほど、それと逆方向へのエネルギーも溜まってしまう。

「多様性を認めようとしないのはいけないことだ!」という発言もまた、多様性を認めるということからは遠ざかっているのではないでしょうか。

 

人間、そんなに意識は変わらないのです。脳は本質的に変化を嫌うのですから、むしろ「心から多様性を認めるほどのメンタリティは無い」というのが健全なのかもしれません。そんな人に対して、心がないかのように扱う社会があり、だから多くの人は「否定をしない」という選択をせざるをえないのです。

 

私自身、まだまだ未熟で多様性を「認める」とは何か見えていませんし、多かれ少なかれ他者を区別しているとも思います。でも、だからこそ心地よい社会にするためにも、色んな考えを発言しあって学び、整えていきたいと考えています。

ComSに来てくれる学生たちにも、考えを発信する勇気を持って話してもらえたら嬉しく思います。